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-水の26-
雪の道
-ゆきのみち- [小川柳野〜下八川十田]
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本川郷(今の本山・大川)に山廻り役として駐在した春木次郎八繁則は、1752年(宝暦2)、当時の村の人々の暮らしの様子を「寺川郷談(てらかわきょうだん)」として記録しています。
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その中には、「石鎚山麓の手箱山には雪屋(ゆきや=氷室)があり、昔は毎年そこに雪を詰めおいていた。
二代土佐藩主・山内忠義公の時代まで6月1日(旧暦)になると、早使いが夜を利用して雪屋の雪を運び献上した」
と記載されていて、運んだ近道を「雪道」と呼んだそうです。
今でも手箱(てばこ)には氷室番所跡が残っています。
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手箱から池川町安居の氷室天神社に運び、大峠(おおとう)を越えて柳野に入ったと伝えられます。
この峠道は、庄屋が高知城下へ行くのに常に利用したので庄屋街道と名付けられています。
十田(とおだ)の氷室天神社は遺跡等はないものの、雪道の要所だったと考えられます。また、鏡村小山にも氷室天神社があります。
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-水の27-
舟の道
-ふねのみち- [上八川思地〜下八川堂ケ畝]
明治維新後、仁淀川(によどがわ)の舟運は自由に、そして盛んに行われるようになりました。
上八川川(かみやかわがわ)では堂ヶ畝(どうがうね)まで上れました。その後、隅田清作(坊蔵)の筏(いかだ)流しのための「上八川川水路開発事業」に代表されるように、
住民の努力で川筋が開削され、休場(やすば)・唐越(からごし)・思地(おもいじ)まで遡航できるようになったのです。
1876年(明治9)の資料によると、思地に14隻、唐越に6隻、休場に11隻、堂ヶ畝に23隻の川舟があり、船着き場として栄えていたようです。
船には、荷物を運ぶ高瀬舟(たかせぶね)、人も乗せる乗匠舟(のしょうぶね)、大舟、中舟などがありました。
その後、道路の開通や川の変化などで、明治末期には堂ヶ畝が最も上流の船着き場になっていました。
左上の写真は「唐越」。水量が少なくて瀬になっていたので、積み荷を降ろして舟だけを通しました。
そして人力で運んだ荷を再び舟積みしたことから、この地名がついています。
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見渡し地蔵
-みわたしじぞう- [広瀬]
村内の川沿いに多くあり、通行の安全を見守るお地蔵様です。
地蔵堂には、穴のあいた石なども奉納されています。
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